「想い出の価格」
妻が亡くなってから半年、娘夫婦のあたたかい申し出もあり、30年には足りないが、四半世紀以上も長く暮らした我が家を売ることにした。こう書くと、私が随分年寄りに感じられるだろうが、還暦前で老け込む年齢でもないし、定年後も収入は減ったがバリバリ現役で働いているし、まだまだ若いとの自負もあった。男やもめの一人暮らしを気にかけてくれる娘の気持ちはうれしく、ありがたかったけれど、最初は断ろうと思っていた。ところが、先日ギックリ腰をやってしまった。2日ほど歩くのが難しく、一人暮らしの不自由と妻の不在を痛感して、気持ちが落ち込むとともに、将来への不安も募った。
「もう若くないんだからさぁ」と食事を作りにきてくれた娘の一言が、私の不安に追い打ちをかけ、一緒にお見舞いに来てくれた孫娘の「おじいちゃん、ウチに来る?」の一言で私は心を決めた。そう、前向きに考えれば、孫娘の顔が見られるという人生最大の喜びを毎日味わえるわけだから。
いざ、売ると決めてはみたが、もちろん不動産の売却は未体験。有名な会社のホームページを検索して無料査定というのをやってみたが途中でわからなくなり、どうにも要領を得ないので、電話をしてみた。一度目はこちらから訪ね、二度目は営業の人が家に来てくれた。それほど期待はしていなかったが、ここまで期待を下回るとは......実は35年ローンの残債が一千万近くあり、全額返済した上で、老後のために少し残ればいいと思っていた。提示された価格は、ほぼ土地の価格のみ。残債はなんとかなるが、手元にはほとんど残らない計算だった。
「築年数が古すぎるので購入希望者がいないことも考えられますが、当社では買取り保証がありますのでご安心ください。必ず売れますから」
ネットで買取り保証を調べたら、査定価格の60%から70%が平均だと書かれていた。それでは、借金まで残ることになる。正直、愕然とした。
専任媒介契約は少し待ってもらって、他の会社も当たってみることに。娘の友人夫婦が家を買ったときの会社を紹介されたので、連絡を取ってみた。その日のうちに、若い営業の人が家を訪ねてくれた。
「なるほど。いいご購入希望者が見つかるといいですね。当社は広告に力を入れていますので、がんばってみます。さっそくですが、お家のことをお話いただけますか?広告のコメントのために、物件のことを詳しく知りたいので。ご購入になった当時のこととか、気に入っている所とか...」
言われるままに話し始めた私は、妻と結婚して子供を授かったのをきっかけに家を買ったこと、娘が生まれ、子育てに奮闘し、やがて成長して......昔のことを思い出しながら、ときどき、すっかり忘れていたことまで思い出し、思いがけない郷愁に浸りながら、我が家での四半世紀の物語を1時間以上も営業の彼に語ってしまっていた。その間、彼は嫌な顔一つせず、何度もうなずき、やさしい笑顔を浮かべながら聞いていた。不思議な時間だった。
査定価格はやや高めだが、大きくは変わらなかった。でも、私は「彼に任せてみよう」と思った。前の会社に専任媒介契約の断りの連絡を入れたら、急に冷たい態度に変わり、嫌味を言われた。
数日後、彼はプロのカメラマンを伴って家を訪れた。彼は、築年数を考えた場合、瑕疵保険に加入した方が買った人に税制優遇があるので売却しやすくなること、リノベーションプランも含めて広告で訴求することなど、いろんな提案をしてくれた。さらに、カメラマンの撮影した写真がすばらしかったので、私にも一枚いただけないかとお願いしたら「もちろん差し上げます」と笑顔を見せた。
彼から購入希望者と一緒に見学したいという連絡があったのは、それから1ヵ月後だった。
見学に訪れた夫婦は30代前半の感じのいい二人で、奥さんは妊娠しているらしかった。外観や家の中を一通り見学して気に入ってくれたようだった。
「広告のコメントを見て、ぜひ、ご主人のお話をお聞きしたいと妻とも話していまして」と二人は、私が最初に彼に話したことを聞きたいと言った。
「ぜひ、お願いします」と彼も笑顔で私を促した。
私は少し照れ臭かったけど、二人に我が家の物語を話し始めた。そして、心の中でもう一度、この我が家で、妻と娘と一緒に懐かしい昔を生きた。
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