「30年後の私たちへ」
今を生きることにずっと必死だった。未来のことをそれほど深く考えたことはなかった。
幼少の頃には夢もあった。サッカー少年だった私も他の少年たちと同じようにJリーグ、海外移籍といった儚い未来を思い描いていた。しかし、小学校の神童は中学校で凡人、中学校のヒーローは高校で脇役、高校の一流はプロで二流がほとんどの厳しい世界。私の場合、中学校で夢はあえなく霧散した。
それからというもの高校受験、大学受験、さらに就職試験と(自分ではない)誰かが決めたレールの上を歩きながら、そのときそのときの今の課題をクリアすることに精一杯で、このレールの向こう側になにが待っているのか、想像さえもしなかった。
社会人になると今度は仕事に追われ、時間は風のように流れた。忙しすぎる毎日の中でふと立ち止まってこの先の人生に思いを馳せることもなく。
そうして、私は30歳を迎える前に結婚した。妻は3年前に中学校の同窓会で再会したサッカー部のマネージャーをしていた2歳下の後輩。補欠だった私と道具磨きや洗濯を一緒にやった話で盛り上がって、それからどちらからともなく連絡を取り合い頻繁に会うようになった。結婚の話は彼女の方から切り出された。私はというと、自分もいつかは結婚するのかなくらいにしか思っていなかったのだ。
これまでの人生、私は未来のことをそれほど深く考えたことはなかった。いや、なんとなく不安を感じて避けていたのかもしれない。
今だけではなく、この先の人生をはっきりと意識するようになったのは、妻が妊娠して新しい「住まい」を探し始めたことがきっかけだった。
CMなどでお馴染みの誰もが知っている不動産会社を訪ね、職住近接のエリアで新築物件を紹介してもらった。物件の良し悪しよりも、これから一生かけて数千万円のローンを払い続けていく、自分の未来に大きな不安を感じずにはいられなかった。私がその不安を口にすると、営業担当者は「大丈夫ですよ」と言っただけで、まるでランチのメニューを勧めるように今ここで物件を決めることを迫った。
私は自分の未来を、妻の未来を、生まれてくる子供の未来を真剣に考え始めた。しかし、そこには漠然とした不安が広がっているだけだった。
FP(ファイナンシャルプランナー)の存在を知ったのは、私よりも先に「住まい」を購入していた同僚から紹介された不動産会社を訪ねたときだった。
「お金の話を嫌がられる方もいますけれど、住宅ご購入のタイミングで教育費や老後などのライフプランを考えるのは大切です。実はほとんどの方がリタイア後の資金に課題を抱えている現状もあります」
FPの資格を持つらしい営業担当者は、PCのモニタにグラフを映し出した。そして、私の年収や保険金額、生活費などの数値をキーボードに打ち込むと(少し大袈裟な言い方かもしれないが)、モニタ上のグラフに私たち家族の未来が描き出された。
「住宅のご購入後も、定期的に専属のFPがお客様の生活の変化や金利変動に合わせて家計や保険を見直し、10年後、20年後、将来のために節税対策や資産運用のアドバイスもしていきますので」
「あの......ここは不動産の会社ですよね?」
「もちろん素敵な物件もご紹介しますよ(笑)」
休日の穏やかな午後、まだ新築の芳香の残るリビングの真新しいソファに私は座っている。妻はキッチンに立って昼食の準備をしている。やわらかい陽光に満たされたこのリビングのように、私の心と身体も安らかな幸福感に満たされている。ベビーベッドで眠っていた生後10カ月の長男がお目覚めのようで愚図り始める声がした。妻が、あ、と私を見た。
「あ、いいよ」と言って、私はソファから立ち上がった。ベビーベッドを覗き込むと長男が愚図るのをやめて微笑んだような顔をした。私は長男を抱き上げてリビングを振り返った。すると、不意に脳裏に同じ空間の異なった風景が立ち上がってきた。
さっきまでの私と同じソファに座って赤ちゃんをあやしている白髪の男性。それは30年後の私。その隣でやさしい笑みを浮かべている老婦人は間違いなく妻。いい顔だ。きっと素敵な年齢の重ね方をしてきたに違いない。赤ちゃんは孫だろうか。長男夫婦は孫を私たちに預けてどこかへ出かけているのだろうか。長男の奥さんはどんな人だろうか。
私はこれまでの人生でずっと忘れていた未来を思い出した。それも、幸せの予感に満ちた未来を。
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