「人生の方向転換」
「結婚しても、子供が生まれても、私は仕事を続けたいし、続けるつもりよ」と妻(当時はまだ妻ではなかったけど)にプロポーズの返事をもらったとき、僕は彼女の姿勢を尊重したいと心から賛同した。
結婚して賃貸に住み始めて2年が過ぎようとしていた頃、同い年の僕と妻も30歳を過ぎた。賃貸契約の更新よりも、家族が増える前に自分たちの家を持ちたいと考え始めていた僕は、妻に相談してみた。
「うーん、反対する理由が見つからないわ」と妻は笑った。そして、その日から家探しを開始。数日後、妻がネットで希望のエリアに気になる物件を見つけたので、担当の不動産会社へ連絡して、営業の人の案内で次の土曜日に現地へ行くことになった。
当日、営業の人は、同じエリアで目的の物件以外にもいくつかの現場へ案内してくれた。僕と妻は二人とも物事を決めるのが早い。物件を見学しているときの表情で、妻の気持ちはすぐわかった。比較できる物件を見せてもらったことも決断を加速したと思う。 「やはり最初に見た物件が私たちの希望に合っていると思います。申し込みは早い方がいいですか?」 「はい。おっしゃる通り早い方がいいのですが......その前に当社へ戻って、将来のために、子供の教育費や老後の貯蓄といったライフプランをシミュレーションして資金計算をきちんとやっておきませんか?」 てっきり喜び勇んで急かされるのかと思っていたので少し拍子抜けした。不動産会社ってもっとこうオラオラなイメージがあったのだけど。
共働きであること、子供は二人ほしいこと、そしてここが大切なのだが、家族が増えても二人で協力して共働きは続けることを伝えると、営業の人はいくつかの情報を入力して、今後40年の収入と支出の推移予測をパソコンの画面上にグラフで表示した。 「お子さん二人が私立に通った場合でも、老後の貯蓄には余裕があります。もう少し詳しい情報があればさらに正確なのですが、共働きで収入も充分ですので大丈夫かと。但し、あくまで現在の予測にすぎませんので、金利も変動しますし、今後、生活になにかしらの変化があったときは、いつでもご相談ください」
最近の不動産会社はきちんとしているなぁ、と感心しながら、"いつでもご相談ください"という言葉が耳に残ったが、社交辞令かな、と受け流した。以前、高額な家電を買ったとき、不具合でお店に電話すると担当者がすでに辞めていて、あからさまに邪険に扱われて悲しい気分になったことを思い出したのだ。ともあれ、自分たちの家が持てることをイメージするだけでなく実感できたことで前向きになれた。
そうして、僕と妻は自分たちの家を叶えた。
妻から待ちに待った幸せの報告を受けたのは、新しい家での暮らしが3年目に入ってすぐだった。子供を授かり、やがて新しい家族が増えることの幸福感に浸る間もなく、僕と妻は、妻の産休と育休、僕の産休と育休のスケジュール確認と申請、保育園や子育て支援制度のチェックなどの準備を始めた。幸いにも妻はつわりが軽い方で、ほとんど仕事を休まずに安定期に入ることができ、すべては順調に思えた。
臨月を翌月に控えた週末の金曜日、仕事から戻ると妙にかしこまった雰囲気を漂わせて「......相談があるの」と真剣な表情で妻が言った。ドキッとした。 「ずっと悩んでいたんだけど、この子とできるだけ一緒にいてあげたいと思い直したの」と妻は愛おしそうに膨らんだ自分のお腹を触った。 「休職では限界があるから退職して子育てに専念したいの。もちろん余裕ができたら、また働きたいと思っているけど、今ほどの収入は見込めないかも。ごめんなさい、突然、考えを変えてしまって」 「......いや、大丈夫。なんとかなるよ」と言いながらも、妻の心変わりを痛いほど理解しながらも、僕の頭は混乱していた。本当に大丈夫なのか? ローン、教育費、老後のことは? 一体誰に相談すればいい?
翌日の土曜日、僕は3年ぶりに不動産会社へ連絡をした。ときどきDMや季刊誌が送られてきていたのは知っていたが、あまり気には留めていなかった。 「そうですか。では、家計とライフプランの見直しをしましょう。明日、お時間ありますか?」とスマホの向こう側から営業の人の明るい声が響いた。
今回は貯蓄高や保険、投資信託や株などの情報をすべて伝えた。すると、前回の収入と支出のグラフと新しいグラフがパソコン画面に並んで表示された。 「数年後、もう一人お子さんが増えたとしても、7年後とその10年後、2回の繰り上げ返済をして、50代半ばでローンを完済できますね。老後の資金はかなり減ってしまいますが、もし奥様が子育てを一段落して復職すれば、そちらの収入を貯蓄に回せますので、余裕も出てくるでしょうし、ご心配には及ばないかと」 「二人目の子供も......教育費は大丈夫ですか?」 「もちろんです」と営業の人が微笑んだ。
僕は心がすーっと軽くなると同時に、ふとテーブルの下に置いた右手にそっと触れる別の手を感じた。妻は僕の右手をやさしく握ると、自分のお腹のあたたかい膨らみへ、明るい未来へと導いた。
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