人生でいちばん大きなお買い物
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大きなお買い物
STORY
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2016.05.23
心あたたまるお話
営業スタッフの思い

筆談のぬくもり

 A4用紙いっぱいに書かれた筆談の最後の行に「ありがとう」という文字を見たとき、同じ言葉なのに、耳で聞くよりも言葉の持つ温かみとやさしさが僕の心をそっと包み込むようだった。本当にたくさんのことを教えられた気がした。お礼を言いかったのは僕の方だった。
「こちらこそ、本当にありがとうございました」と、僕は、その「ありがとう」という文字の下に気持ちを込めて書き返した。
 
筆談は生まれて初めての体験だった。
 それは、ホームページの売地情報を見たお客さまから届いた一件のメールによるお問い合わせから始まった。僕はいつものように受話器を取った。まずはお客さまの声を聞くこと。メールの文字からはお客さまの顔は見えてこない。
 十回目のコールを聞いて電話を切った。そこで、簡単なあいさつ文とほかの物件情報をいくつかメールで送信すると、すぐに返信があった。紹介した売地の一つをぜひ見てみたいとのこと。もう一度電話をしてみたが応答はない。次の日曜日にご案内したい旨をメールしたら、ほどなくOKの返信。結局、待ち合わせの時刻もメールだけで決めた。
 
 当日、現地を訪れた僕は電話がつながらなかった理由を知って、表情には出さなかったが内心戸惑った。お客さまは三十代前半のご夫婦。お二人は、聞くことと話すことが困難だった。
「すいません。お手数をおかけします」
 そう書かれたメモを奥さまが申し訳なさそうに僕に手渡した。あ、と思って僕はとっさに持っていた資料の裏側にボールペンで走り書きした。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。今日はありがとうございます」
 お二人は僕のヘタクソな文字を見て穏やかに微笑んでくれた。僕は、次のご案内からA4用紙を用意することにした。それから約半年間、お二人との会話はすべて筆談だった  。
 初日にご覧になった土地は、広さは問題なかったが、かなり規模が大きい分譲地だったことがネックになった。
〝近隣のお付き合いは気心知れた方々に限定したい。人がたくさん集まる所は、耳が聞こえないことで、上手に受け答えができず、失礼な態度に見られる場合があるので〟と達筆なご主人は美しい文字でそう理由を綴った。
 ハンデを抱えている人は、僕たちが思っている以上に周囲の人に気を遣っている。今まで考えたこともなかった。僕は気恥ずかしい思いがした。
 五十坪以上、三千万円以下。お二人が希望するエリアでは難しい物件だった。ハンデのことを考慮すると諸条件も厳しくなる。ない袖は振れないが力になりたい。粘り強く、丹念に探すしかない。
 ご案内の前日、伝えるべき内容を文章にしながら現地を下見して回る。伝えたいことを簡潔にわかりやすく  あまりにも基本的な文章の書き方。しかし、基本は最も難しい。結局、普段の準備に比べてかなりの時間を要した。
 ご夫婦は、もう一度検討したいからと、いつも筆談したA4用紙を持ち帰った。一回のご案内で五枚から六枚のA4用紙が文字でいっぱいになる。契約までの半年間で二十回以上、一回で五枚使ったとすれば、合計で百枚以上のA4用紙がご夫婦の手元には残っているはずだ。そこにはお二人と僕で交わされた会話の内容がすべて記録されている。たわいない世間話も、たまに飛び出す冗談もまるで懐かしい交換日記のように。
 交通量の多い大通りから離れた閑静な分譲地、駅からも近くアクセスも便利、そして全五区画の程よい大きさ  その物件を下見したとき、穏やかに微笑むお二人の顔が、僕の目に浮かんだ。
 
 契約は重要事項説明や質問などのために、手話のボランティアの人を交えて行われた。いつもなら二時間弱で終わる契約が三時間以上もかかったのに、僕にはいつもより短く感じられた。僕は、お二人の満足そうな笑顔をずっと見ていたいと思った。