寡黙(かもく)な雄弁
「予算を考えたら、これ以上の物件はないですよ」と言われて〝またか〟と気持ちがぐったりするのを感じた。同じ台詞を何度聞かされたことか。〝先週、別の物件を見たときも確かそう言ってませんでしたっけ?〟と、その営業マンをにらみながら、私は心の中で皮肉った。
三人目の子供を授かったことがわかったとき、私と夫は家を買うことを決意した。来年、上の女の子は小学校に、下の男の子は幼稚園に入る。いつまでも家族四人、川の字になって寝るわけにもいかないし、もう一人増えるとなるとなおさらだった。一念発起するしかないと二人で腹を決めたのだ。しかし、いざ「住まい」を探すことになっても、私たちは不動産の知識はほとんどないに等しかった。さて、どうしてものか。
間取りは最低でも4LDK、新築で日当たりが良くて、駅から徒歩圏内、そうそう、子供たちの通う小学校や幼稚園からもなるべくなら近い方がいい 希望を数え始めたら切りがない。ネット上で予算を入力して検索すると、いくつか気になる物件があったので、メールで資料を請求してみた。すぐに数社から返信があった。
「わからないんだから、実際に物件を見て勉強していくしかないよ」という夫の言葉通り、大いなる素人の私たちは返信のあった順に、物件を見て回ることにした。ところが、勉強どころか、もっとわかならなくなってしまったのだ。
「たまたま運が良かった」
「他にはない掘り出し物です」
「これ以上の物件はもうありません」
どの不動産会社の営業担当者も紹介する物件を誉めるばかりで一向に要領を得ない。そのせいか、どの物件を見ても〝本当にここでいいの?こんなに大きな買い物をこんなに簡単に決めていいの?〟と迷いは深くなる一方 そんなとき、彼に出会ったのだ。
私たちのためにわざわざ作ってくれたらしい丁寧に製本された物件資料を手渡しながら、彼は言った。
「この資料の中から見たいと思う物件を選んでいただけますか?」
私と夫は沿線ごとに見やすく整理されたリストから気になる物件を選ぶ。すでに別の不動産会社に紹介された物件は除外した。その間、彼は静かに待っていた。
物件へ案内してくれるときも、私たちの話はよく聞いてくれるのだが、彼はあまり喋らなかった。〝こんな寡黙な性格で不動産の営業が務まるのだろうか〟とこっちが心配になるほど 口を開いたかと思うと、ほとんどが物件の欠点やデメリットだった。
「奥様は自動車免許をお持ちでないようなので、駅から歩いて三十分の距離は少し難しいかと思います」
「大通りに面しているので、小さなお子様がいるご家族にはお勧めできません」
「間取りは最高ですけど、日当たりは正直言って最悪です」
「この辺りは世代的に年輩の方が多いようで、お二人と同世代のご夫婦はいらっしゃらないと聞いています」
〝この人、本当に売る気があるのだろうか?〟
私は半ばあきれるように夫を見た。夫は私の顔を見て、面白がるように微笑んだ 彼を気に入っているようだ。
その日の見学で予定していた五つの物件を見終わったとき、彼が申し訳なさそうに言った。
「あの、もう一件見にいきませんか?」
「行きましょう」と夫は即答した。
日の傾きかけた遅い午後、新築の住宅が立ち並ぶ一画、車通りの少ない開放的な道路で子供たちがサッカーボールで遊んでいた。子供たちの母親らしい三人の主婦が私と夫に軽い会釈をした。
それは二週間前、別の営業マンに紹介された駅から徒歩十分の角地にある新築物件だった。しかし、以前とはまったく別の「住まい」に見えた。ここで暮らしている私たち家族五人の幸せな笑顔が、私の心にはっきりと見えた気がした。まるでこの美しい夕暮れどきの魔法にでもかかったかのように。
引っ越しから一ヵ月が過ぎた頃、彼が新しい「住まい」を訪ねてきた。
「あ、これ、会社からのお祝いです。それから......こっちは私から......です」
彼は照れ臭そうに菓子折りと紙袋を差し出した。紙袋の中身は乳児用の服だった。センスはイマイチだったけど、彼のやさしさに泣けてきて、思わず笑みがこぼれた。
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