夢の中へ
急な坂道をゆっくり登っている。見上げると坂の上には空しかなく、頂上から白い雲が湧き上がっている。まるで雲の中へ向かって歩いているみたい。中腹で立ち止って振り返ると、眼下には海が広がり、光を受けて金色に揺れる波頭が見えた。坂を駆け上がってくる海風がほてった頬に心地よかった。大きく息を吐いて一歩一歩足を踏み出す。すると、坂の頂上に一軒の家が見えてきた。さぁ、あと少し、あの僕の家まで まだ小さかった頃、よく見た夢だった。もうすっかり記憶の底に沈んでいた。
父は転勤が多かった。山梨、群馬、栃木、埼玉など、関東周辺を行ったり来たりで、しかも海のない県ばかり。小学校に上がる前、家族で湘南と鎌倉に一泊旅行へ出かけたことがあった。江の電と坂と海 そして潮の香りの印象が強かったのをうっすら覚えている。夢はその影響かもしれないな、と今さら思う。
僕は大学へ進み、実家を離れて都内で一人暮らしを始めた。それなりに楽しく充実した四年間を過ごし、東京を拠点とする無名の中小企業に就職した。
仕事は厳しく甘くはなかったが、努力がすぐ結果につながることに面白さを感じ、とにかく必死に働いた。三十歳を前に課長に昇進、大学時代から交際していた一年後輩の女の子と結婚した。翌年、子供が産まれたのをきっかけに、三十年ローンで都内にマンションを買った。
平凡ではあるけれど、男女二人の子供にも恵まれて幸せだったと思う。ただ仕事と家庭を行き来する忙しい日々の中で、ときどき、ふと、どうしようもなく〝いつかは海の近くで暮らしたい〟というイメージが心に浮かんできた。その感覚がどこから来るのか、当時は深く考えてみる時間の余裕はなかったけれど。
僕は、来年で五十歳になる。仕事では三年前に取締役となり、昔はあれほど足りないと感じていた時間を持て余すようになった。まぁ、あと十年で定年だ。子供たちも、女の子は短大を出て就職し、男の子は大学に入って一人暮らしを始めた。息子からほとんど連絡がないと、妻は毎日にように文句を言う。
初夏の日曜日の午後、目を覚ましてリビングへ行くと、妻がベランダで洗濯物を干していた。ソファに座って新聞を広げたとき、窓から吹き込む風を頬に感じた。〝え、潮の香り?〟と、妙な感覚に捕らわれて思わず窓の方へ顔を向けた。「どこか海の近くにでも引っ越しますか? 私、ガーデニングがやりたいわ」
妻が僕を見て微笑み、そう言った。
湘南と鎌倉の不動産会社をネットで調べ、数社に電話をしてみたが、色好い返答はなかった。年齢を言うと急に態度が冷たくなったり、二重のローンは審査を通らないと電話を切られたり やはり無理なのかな、と少し落ち込んだ。
「次のお休みに現地へ行ってみましょうよ」と妻が笑う。妻の笑顔が美しい、と久しぶりに思った自分に驚いた。
次の土曜日、藤沢から江ノ島方面へ歩き、疲れたら江の電に乗ろうということになった。二人とも足腰にはまだ自信があった。歩き始めて数分、南国のカフェのような雰囲気の不動産会社を見つけた。
僕たちを接客したのは、同年代の営業の人だった。彼は、僕の話を穏やかな笑みを浮かべながらじっと聞いていた。
「......大丈夫ですよ。都内のマンションが売れるのが理想ですけど、他にも方法はありますから。それよりも、ぜひ、お二人にお見せしたい物件が鎌倉にあるんです。今からお時間ありますか?」
彼と僕と妻は、急な坂をゆっくり登っている。〝ここから歩きましょう〟という彼の勧めで、車は坂の下に停めた。見上げると、坂の頂きから今年初めて見る入道雲がソフトクリームのように湧き上がっている。ここは遠い昔に歩いたことがある 僕は不思議なデジャヴを体験していた。妻が僕を見て笑った。
坂の中腹で立ち止って振り向くと、そこは小さい頃に見た夢の中だった。
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