人生でいちばん大きなお買い物
人生でいちばん
大きなお買い物
STORY
update
2016.05.23
泣けるストーリー
お客様の気持ち

桜の花のように

 ご案内から会社に戻る途中、ふと車を停めて、冬枯れの桜の木が立ち並ぶ公園を歩いた。ここは桜の名所で春には大勢の花見客で賑わうが、二月の寒いこの時期は、犬と散歩する人、ランニングする人をちらほら見かけるくらいで、嘘のようにひっそりしている。僕は一本の桜の木の前で立ち止った。昨年の春、満開の花に彩られたこの木の下で、花見客の陽気な喧噪に紛れて、あれほど激しく泣いたことを、僕は一生忘れないだろう。
 
「金ならあるからさぁ、いい物件紹介してくれよ」と僕の顔を見るなり、そのお客様は言い放った。最悪なタイプ。
 アポなしの飛び込みで来社したご夫婦  四十代前半で強面のご主人と帽子を深く被ってマスクをした線の細い奥様のご希望は、竣工している新築一戸建てということ以外は曖昧だった。僕は物件を紹介しながら、お二人の思いをお聞きして、ゆっくりイメージを形にしていこうと考えた。しかし、このご主人が第一印象の通りのキャラで、いつも落ち着きなく、イラ立ち怒っているのだ。
「違うよ、違う、こんな家じゃない」
「ふざけるな。家の前にこんな階段があって、もし転んだらどうすんだよ」
「あーもう、他の業者に行くかな」
 どんな物件を紹介しても、ただNOと言うばかりで取りつく島もない。僕は困りに困って、心の中で〝本当に他に行ってくれないかな〟とさえ思っていた。
「......あの、窓からたくさんの桜の木が見えるお家はありませんか?」
 ある日のご案内で、奥様がぼそりと口を開いた。僕はそのご希望に合う物件に心当たりがあったので、すぐにお二人を見学にお連れした。二階の窓を開くと、桜の名所である公園が見渡せた。二ヵ月後、この風景は一面に淡いピンクのベールをまとうはずだ。
「......美しいのでしょうね。桜の花のように生きられたら、幸せでしょうね」
 冬枯れの桜の木々を眺めながら、奥様はため息のようにふわりとつぶやいた。その夜、ご主人から僕に電話が入った。
「今日見た桜の木が見える物件で話を進めたいんだけど、条件があって......」
〝五百万円の値引き〟と〝決済前の引き渡し〟という非常識な条件  仕方なく売主に伝えると〝そんなお客は断ってください〟と厳しく一蹴された。
「その条件じゃないと意味がないんだよ......もういい」と僕の報告を聞いたご主人は一方的に電話を切った。もう会うこともないだろう。正直、ほっとした。
 
 ところが数日後、ご主人から〝会って話したい〟というメールが届いたのだ。「先日は大変失礼しました......」と話し始めたご主人には差し迫った真剣さが感じられ、まるで別人のようだった。
「......あの、実は妻は病気なのです。三週間ほど前に余命三ヵ月と宣告されました。本人には伝えていませんが、なんとなく感じているのかもしれません......妻はあの家から満開の桜を見てみたいと言っています。私事で申し訳ありませんが、どうか、お願いいたします」
 今までのご主人の態度や言動に、まさかこんな事情があったとは  僕は心を決めて上司に相談した。〝会社を挙げて応援しよう〟の一言をもらい、売主の所へ行くと〝早く言ってよ、私も協力させてもらうよ〟と快諾してくれた。世の中、まだまだ捨てたものじゃない。
 二ヵ月後の決済の日、奥様は体調が優れないからと、ご主人だけの来社だった。
「ありがとう。これから帰って妻とゆっくり桜を眺めて過ごします」とご主人は僕と上司に向かってやさしい微笑みを浮かべ、握手を求めてきた。
 
 その日の夕方、車でお二人の新居の前を通ったとき、思わず目を疑った。そこには葬儀の花輪が  僕は路肩に車を停めて、大勢の花見客で賑わう公園をふらふらと歩いた。一本の桜の木の前で立ち止って上を見た。この満開の花を奥様は見ることができただろうか。大声でなにかを叫ばないと胸が潰れそうな気がした。つい数時間前のご主人のやさしい微笑みが脳裏に浮かんだとき、僕の涙腺が壊れた。