前向きな一目惚れ
「子供が小学校に入学する四年後に家を買おうと考えています。そこで、後学のためにどんな物件があるか見ておきたいのです。どうぞよろしくお願いします」
「住まい」は確かに大きなお買い物だ。人生で一番高額かもしれない。さすがに慎重にもなるだろう。しかし、四年後を見据えて「住まい」探しを始めるお客様は営業人生十一年で初めてだった。
待ち合わせの場所に車を停めると、僕は大きくため息をついた。
四年後か......長いよなぁ。
運転席から、屋根の上で快晴の青空を気持ちよく泳いでいる鯉のぼりが見えた。ゴールデンウィーク最初の日曜日、世の中はさぞかし浮かれていることだろう。そんなとき、僕は四年後のために働いている。少しさみしさを覚えた。
お約束の時間五分前、こちらに向かってくる三人のご家族の姿が目に入った。真ん中に三歳くらいのお子さん、ご夫婦に両手をつながれて顔をほころばせている。
真鯉のお父さん、緋鯉のお母さんと子供 〝鯉のぼりみたいに仲良さそうな家族だなぁ〟
「はじめまして。今日はよろしくお願いいたします」
名刺を差し出すとご主人は大切そうに受け取って、僕の顔と僕の氏名を何度か交互に見て微笑んだ。
「今日は楽しみにしています。こちらこそ、よろしくお願いします」
かなり真面目な印象。四年後のために「住まい」探しを始めるくらいだから、それもそうか。と妙に納得しながら車に乗り込み、エンジンをかけたとき、そのご主人の口から予想もしなかった言葉が発せられた。
「あの、ひとつお願いがあるんです。今日、もし私たちが家を買おうとしたら止めてください」
「え? どういうことですか?」
それまで静かだった奥様が照れ臭そうに口を開いた。
「私たち、気に入るとなんでもすぐほしくなっちゃうんです」
そうして、ご夫婦はお二人の〝一目惚れ〟の過去を告白し始めたのだ 服や家具はもちろん、アパート、車、ペットの犬、驚いたことにお二人のご結婚までも。
「ご、ご結婚も......ですか?」
「そうなんです。出会って二ヵ月で結婚しました」と奥様が幸せそうな笑顔を浮かべた。
「でも、さすがに住まいは今までとは勝手が違います。一生暮らす大切な場所ですから、私たちにブレーキをかけてほしいんです」
ご主人が真顔で僕を見た。
「はい。必ずブレーキをかけますからご心配なさらずに」と反射的に答えた僕は、珍しいお願いに心ではいささか戸惑っていた。
ご案内は、お子さんとご夫婦の笑いあり、驚きあり、感動ありの楽しい時間になった。〝本当に幸せそうな家族だなぁ〟と僕まで幸せな気分に浸ってしまったほどだ。
最後の物件を見終わって車に戻ったとき、ご主人が小さな子供のように目を輝かせて僕を見た。
「二番目に見た物件が気に入りました。買います。契約するにはどうしたらいいんですか?」
〝え、契約?いやいや、ダメだ〟
僕の心は一瞬だけ迷い葛藤したが、すぐに意を決した。
「ご契約はできません。今日は買わせないというお約束ですから」
営業人生十一年で初めて言った不思議なセリフ。この先、一生言うこともないと思うけれど。
「お心づかい、本当にありがとうございます。でも、あの物件以外には考えられません。買います」
「いや、いけません」
「お願いです、買わせてください」
「う......でも、ダメです」
ご主人と僕の漫才のような押し問答を微笑ましそうに聞いていた奥様がすっと間に入った。
「あの......私たちは今まで一目惚れして買ったもので後悔したものはひとつもありません。どのように選ぶかよりも、選んだものをどのように良くしていくかが大切だし、それは自分たちの前向きな気持ち次第だと思うんです」
結局、その日のうちに会社に戻ってご契約へ。
〝本当にいいのかなぁ?〟
宵の口、今日待ち合わせした場所までご家族をお送りした別れ際に、ご主人が笑って言った。
「今日は本当にありがとうございました。でも、今回はこれでも慎重に話し合った方なんですよ」
ふと見上げると、昼間見た鯉のぼりの家族が、今は静かに身を寄せ合いながら眠っていた。
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