人生でいちばん大きなお買い物
人生でいちばん
大きなお買い物
STORY
update
2016.05.23
役に立つトピック
営業スタッフの思い

解約のためのご案内

 僕が携わる不動産仲介の営業には〝ご案内〟と呼ばれる仕事がある。お客様のご希望や条件に合わせてピックアップした物件を実際に見ていただくために、現地へとお連れすることだ。
〝ご案内〟には大きく二つの目的があると僕は思う。まず一つ目は、間取り図や写真ではわからない物件のディティールから周辺の環境、街の雰囲気まで、お客様ご自身の目で確かめ、肌で感じてもらうこと。二つ目は、そうやって〝ご案内〟を何度か重ね、いろんなタイプの物件を見ることで、お客様に物件のトレンドとエリアごとの相場観を学んでもらうことだ。
〝どんな物件が一体どのくらいするのか?〟
 その感覚を養うことは、お客様が心から納得した上で間違いのない選択をするために、きちんと踏むべき大切なプロセスといえる。......のだが、「住まい」探しの現場では、これが上手に踏めないこともあるのだ。
 
「では、後で現地の方へ行ってみます。はい、ありがとうございます」
 懇意にしている売主さんから電話で公開前の物件情報をいただいた。中央線沿線の人気エリア、駅から徒歩五分、大通りから道を一本隔てた閑静な住宅街、間取りや仕様が選べるフリープラン  現地へ向かう車の中で欠点を探してみたがほとんど見つからなかった。
 現地はまだ造成されたばかりの更地で全区画が緑豊かな森林公園に面していた。とくに東側の端に位置する正方形に近い区画は、少し公園に突き出した形になっていて、正面以外の三方向から森林を臨む絶好のロケーションだ。
「......あの、すいません」
 背後からの声に振り向くと、三十代に見える男女がそれぞれ自転車に乗ったまま僕を見ていた。
「ここって売ってるんですか?」
「はい、売り出したばかりですよ」
 そのご夫婦は「住まい」を探し始めたばかりで、ご希望のエリアを自転車で回っているらしかった。
 僕はご主人に名刺を渡した。
「ここは本当におすすめなんですよ。いつでもご連絡ください」
「営業の人はなんでもそう言うのよ」と奥様は冷めた目で僕と僕の名刺を一瞥した。
〝うむむ、この奥様は強敵かも〟
 二日後、ご主人から〝東側の角地について詳細を知りたい〟という電話をもらった。僕はすぐに売主さんと連絡を取ってその区画の状況を聞いてみた。たった中一日で、すでに二組が契約の意向を示しているとのこと。猶予は一週間しかなかった。来週の今日までに契約しないと先に売れてしまうわけだ。
 その日の夜、ご来社いただいたご夫婦にありのままを伝えた。ご主人は納得してくれたようだったが  。
「お家を一週間で決めるなんてどうなんですか?他にも良い物件があるかもしれないでしょ。それに契約間際の人がいるって本当ですか?あの物件を無理矢理に売りつけるつもりでしょ」
 表情に明らかな不審の色を浮かべた奥様のお気持ちは十分に理解できた。「住まい」探し初心者のお二人に、僕はまだ一件の〝ご案内〟もしていないのだから。
 しかし、こういった掘り出し物は待てど暮らせどなかなか現れないくせに、現れたら現れたで一秒も待ってはくれないのだ。僕は上司に確認を取って、ある賭けのようなご提案をした。
「ご契約していただいた後に、物件のご案内をさせてください。それでも納得できない場合は解約してもらっても構いませんし、手数料も一切いただきません」
「本当に解約しても、手数料を払わなくてもいいんですか?」
 そう念を押す奥様は、まだ信用できないといった難しい顔で僕を見た。
「ええ、もちろんです」
 
 そうして僕的にも会社的にも前代未聞の、ご契約後の〝ご案内〟が始まって一ヶ月半  土地から建売りまで二十件近い物件を回って、土地の形状、アクセス、周辺の環境、学区など、なにかしらの欠点があり、僕はそれらをわかりやすく丁寧に説明していった。四回目のご案内後、いつものように僕はお二人に来週のアポ取りをして、次のご案内の方向性について簡単なヒアリングを始めた。
「来週はもう少しエリアを広げて回ってみましょうか?」
 ご主人が少し間を置いて口を開いた。
「来週は案内よりも工務店さんを紹介していただけませんか?」
「え?」
 奥様が静かに言葉を継いだ。
「もし、あの物件を契約していなかったら、私は一生後悔するところでした。私たちはあなたに出会えて幸運でした。本当に感謝しています。ありがとうございました」
 その表情には、僕が初めて見る奥様のやさしい微笑みが浮かんでいた。