真夜中のホームボーイ
入社して半年、仕事を一人で任されることも多くなってきたとはいえ、まだ半人前、日々覚えることは山ほどある上に、宅地建物取引主任者の試験まであと一ヵ月を切った。僕の脳内メモリは容量を遥かに超えて、パンク寸前 僕は少し、いや、かなり焦っていた。
日曜日の朝イチからのご案内を終え、次の待ち合わせ場所に三十分前に到着した。近くのコンビニでおにぎりとお茶を買い、宅建の参考書を片手に遅い昼食を取るべく近くの公園に向かっていると、僕のスマホが鳴った。
〝嫌な予感〟
「すいません。急な仕事でまた主人が来られなくなりました」と申し訳なさそうな奥様の声が聞こえた。
「や、だ、大丈夫ですよ、また改めてご連絡しますので」と僕は努めて明るくお応えしたが、スマホを切ると思わず深いため息が漏れた。
〝二週連続のドタキャン〟 物件の問い合わせがあったのが三週間前、すぐに奥様だけを現地へお連れして、これ以上はないほどに気に入っていただけたまでは順調だった。しかし、肝心のご主人は医療関連の会社にお勤めで、休日が不定期な上、突然の仕事が入ることは日常茶飯事、僕はまだ一度もご主人と会っていないし、一言の会話もしていない。物件をご覧になる、ならない以前の問題だった。
「主人は几帳面(きちょうめん)な性格で少し神経質な所もあって......できれば一度見てもらってからの方が......」
奥様一人では判断できず、契約の申し込みは遅れる一方。無理を言って待ってもらっている売主の痺れはいつ切れてもおかしくない状況だ。
おにぎりをお茶で胃に流し込む。味わう余裕など、僕にはなかった。
会議室で僕の報告を聞いた上司は、少し間を置いて口を開いた。
「売主の方はもう一週間待ってもらえるようにオレが説得するから、お前は奥様に連絡して、次のご案内の日はご主人に急な仕事が入ったとしても、終わるまで待って現地へお連れするアポを取ってくれるか。あ、それとさ、少し肩の力を抜いた方がいいな。じゃ頼むな」
差し迫った事情を理解してくれた奥様は、ご主人をどうにか納得させてくれたようだった。
当日は朝からあいにくの冷たい雨が地面を濡らしていた。予報では夜半過ぎまで降るらしい。約束の時刻は午後四時、雨の中のご案内になりそうだった。オンタイムで現地へ着いたとしても、途中で暗くなるだろう。多棟現場の物件はまだ建築中で周囲の足場が取り外されたばかりで、電気はまだ通っていなかった。僕は上司の指示でビニール傘とマグライトを数本準備した。
午後三時過ぎ。奥様から連絡が入った。
「残業で少し遅くなるようです」
〝まぁ、予想通りの展開〟
午後六時を回った。
〝まだ想定内〟
宅建の参考書をめくる僕の腕の時計が午後八時を示す。
〝これはまだ想定内か?〟
と、スマホが鳴った。
「まだかかるようなのですが、今日はもう遅いですし......」
「大丈夫です。お待ちしますので」
結局、僕たちがオフィスを出たのは午後十一時を回った頃だった。
初めて会うご主人は奥様の言葉通り少し気難しそうに見えた。
〝こんな夜中にご案内を強行して本当に納得していただけるのだろうか?〟
小雨がパラついていたので外観は後回しにして、建物の中からご案内を始めることに 僕と上司はそれぞれマグライトを持ち、足元と周囲を照らしながらLDK、和室、バスルーム、二階の各部屋へ。僕の話にご主人は静かにうなずいているようだった。和室へ戻ると四人で車座になって、僕がマグライトで資料を照らし、上司が資金計画を丁寧に説明した。そうして外へ出たときは、もう午前一時近かった。雨は上がっていた。
「ああ、東京近郊でも雨上がりにはこんなに星が見えるんですね」
ヘッドライトで外観を照らすため車に向かおうとした僕は、ご主人の言葉に思わず立ち止った。ふと見上げると、すっかり雲が洗われて美しい星空がそこにあった。
「少し冷えるのでコーヒーでもどうですか?」と上司がポットを手に車から戻ってきた。
〝お、いつのまに......さすが〟
「うん、私の家が一番いいね」とご主人がコーヒーを飲みながら満足そうに微笑むと奥様も微笑んだ。
星空のほのかな明るさに浮かび上がった「住まい」はとても幻想的でやさしかった。僕はもう一度夜空を見上げた。
〝ああ、キレイだな......こんなに美しい星を見るなんて何年ぶりだろうか〟
その瞬間、焦りや不安を抱えて重く沈んでいた僕の心が、すーっと軽くなっていくのを感じた。
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