学区と転校
「ただいまぁ!」という元気な声とともにリビングに飛び込んできた九歳の長男が、息を切らしながら興奮ぎみに話しかけてくる。
「あのね、友だちが家に遊びに来たいって、あ、三人ね。でね、明日なんだけど、いいかなぁ?」
「いいわよ、三人ね、男の子?」
「やった!うん、男子だけで女子には秘密の会議をするの。ママは女子だから立ち入り禁止だよ」
「えー、そうなの......残念」と言いながら、私は、その得意そうな笑顔に心の中で〝良かったね〟と声をかけた。
"良かった、本当に"
十年前、私は長男を身籠って結婚した。いわゆる〝できちゃった婚〟 お互いの身内と親しい友人だけで簡単な式と披露宴を済ませると、そのまま夫の1DKのアパートで暮らし始めた。
長男が産まれると〝もう少し広い家に越そうか〟という話も出たが、私と夫は初めての子育てのあわただしさに精神的にも時間的にも余裕がなくなり、長男が五歳になるまでそこにいた。実際、長男は夜泣きがひどく、身体も弱く病気がちだったし、ハイハイも歩けるようになったのも遅かったので〝この子はちゃんと生きていけるのだろうか〟と本気で心配したくらいだ。
次男がお腹にいることがわかったとき、2LDKの賃貸マンションに移ることになった。私も夫も長男の転園について深くは考えていなかった。次男ばかりに目が向き、長男のことはおろそかになっていたのだ。
引っ越して一ヵ月半が過ぎたある朝、突然、長男が私の前に立ち、嗚咽を始めた。
「ママ......は赤ちゃんで大変......だから、ワガママ言っちゃ......いけない......けど、僕......行きたくない......前の家に帰りたい」と言うと嗚咽は号泣に変わった。
長男は新しい幼稚園に馴染めず、友だちもできず、ずっとさみしい思いを我慢していたのだ。転園は五歳の男の子にとって人生の一大事 そのことに気づいてあげられなかった自分を、私は責めた。
「ごめんね......本当にごめん」
〝もう二度とそんな悲しい思いはさせない〟
私は、泣きじゃくる長男を抱き締め心に固く誓ったのだ。
幼稚園の先生に相談し、長男が他の園児たちと仲良くできるよう取り計らってもらいながら、なんとか無事に卒園できた。小学校に上がっても、長男の学校生活には気を配った。幸い、友だちもたくさんできて毎日学校へ行くのが楽しいようで、私は安堵していた。
念願のマイホーム探しを始めたのは、長男が小学校三年、次男が幼稚園の年長さんの終わりに差しかかった頃だった。
最優先の条件は今と同じ学区であること。次男は小学校入学だから問題ないとしても、長男にとって学区が変わることは転校を意味する。それは、私にとって誓いを破ることだ。
「隣の市までエリアを広げていただければ、ご希望に叶う物件をご紹介できるのですけれど」と不動産会社の人は困った顔をした。
私たちが暮らしている学区は、人気エリアで物件も出にくい上に価格も高く、予算内では希望の条件は難しかった 中古か、新築でも今と同じ広さか、狭くなるか。
「学区を変えるのは無理です」
「......わかりました。学区限定で物件が出るのを待ちましょう。でも、とりあえず他のエリアの物件を見るだけ見てみませんか?」
私と夫は〝見るだけなら〟と隣の市へ物件を見に連れて行ってもらった。
最初の新築物件の玄関に入った途端、これまで内覧してきた物件とのあまりの差に呆然とした。私と夫が思い描いていた理想のマイホームがそこにはあった。
その夜、久しぶりに夫婦喧嘩が起きた。
〝学区をあきらめないか?〟
そう口にした夫に、私は声を荒げ、怒鳴ってしまったのだ。
「しっ、子供たちが起きちゃうだろ」という夫の言葉にハッとした。
「ごめんなさい。でも、それだけはイヤよ......お願いだから」
翌朝、小学校に向かう長男を玄関まで見送りに出ると、急に長男が真剣な顔で私に向き直った。
「ママ、僕ね、転校しても大丈夫だよ。また新しい友だちを作れば今より友だちも増えるしね。幼稚園のときは泣いちゃったけど、もう小学生だし、今度は平気だよ......だから......だから......パパと仲良くして」と、はにかんだような笑顔を浮かべた。
その笑顔に、今度は私が泣かされる番だった。
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