信頼の相対論
光は闇があるからこそ輝ける。つまり、良いものは悪いものがあって初めて良いものになれる 世の中は相対的にできている。なんて言うと大袈裟かもしれないが、生まれて初めてなにかを体験するとき、その良し悪しを正しく判断するためには、比較する他の材料が必要になる。直感や勘と呼ばれるものは結局、頭の中に積み重ねられた経験と知識という引き出しから無意識に比較の材料を取り出し、瞬時に相対的な判断を下した結果なのではないだろうか。私にはそう思える。なんだか理屈っぽくなってしまったが、つまる所、私と妻が「住まい」探しに費やしたおよそ二年間は回り道ではなく、必要かつ貴重な時間だった。と私は確信しているわけだ。
「買うとなると、やっぱり賃貸とは違ってくるよね?」
「そりゃまぁ、住宅ローンとか保険とか税金とか、これからの人生にも長く大きく関わってくることやしな。生涯をかけて払うわけやから」
「初心者でも大丈夫かな?」
「なにかを始めるとき、最初は誰でも初心者なんやから、そんなこと心配しても仕方ないやろ」
「うん、まぁ、そうだけど」
「オレの経験から言うと、いろんな会社に行って、この人から買いたいと思える営業の人を見つけて任せればええと思うよ。東京の相場はわからんけど、物件よりも信頼できる人を選ぶ方が大切なんちゃうかな」
「住まい」探しを始めるとき、まず地元の大阪で不動産仲介の仕事をしている兄に相談した。私と妻は不動産の購入はもちろん初めてだし、物件の相場観や住宅ローンの知識もほとんどなかった。でも、「住まい」への思い入れは人一倍強く、それだけに漠然とした不安も人一倍大きかったのだ。
私たちは兄のアドバイスを肝に銘じながら、ネットで検索した不動産会社をいくつかピックアップして、とにかく営業の人に会って話をしてみることにした。
メールや電話で連絡を取ってアポを入れると、妻はリビングの壁にかけたカレンダーに「住まい」探しのスケジュールを記入した。
最初に訪ねた会社の担当者は私たちと同年代の三十代前半と思われる男性だった。初心者であることを告げると、彼は不動産を購入するまでの流れを丁寧にわかりやすく説明してくれた。
将来のライフプランを想定した資金計画から物件情報の収集、物件の内覧、ローンの申し込み、契約、引き渡しまで まるで面白い授業のように私と妻は聞き入った。
それから彼は、私たちの希望や条件を決して急かさずじっくり聞いた後、いくつか物件を選んでメリットとデメリットを交えて特徴を紹介すると、その資料のコピーを手渡してくれた。
「もし気になる物件があれば車で現地へお連れいたしますので、いつでもご連絡ください」
彼の接客は二時間を超えていた。
少し緊張していた私は最初の会社訪問を終えると、ほっと胸を撫で下ろした。感触は悪くなかった。
「もっと積極的に売ろうとするのかと思って内心身構えてたんだけど、逆に拍子抜けした感じ」と妻が笑った。私と同じ気持ちだったようだ。
「うん、言葉づかいも身だしなみもちゃんとした人だったし、この数時間でかなり勉強にもなったな」
その夜、兄に連絡して今日のことを話し、感想を求めた。それが今後の基準になると思ったからだ。
「へぇ、その営業の人、なかなかできる人やんか。この際、その人にぜんぶ任せたらええんやないの?」
「いやいや、さすがに今日の今日で決められないよ」
普段は人のことをあまり誉めない兄の誉め言葉を、私は少し意外に思った。
最初の営業の彼とは、その後も何度か電話で話したが、他の不動産会社も回っていることを正直に伝え、そのうちに連絡も途絶えてしまった。
それからというもの、私と妻は一体何人の営業の人と会って話しただろうか 。
一言目にいきなり年収を聞いてくる人、電話しすぎる人、連絡しなさすぎる人、夜遅くに自宅に押しかけて平気な人、「これ以上の物件はありません」が口癖の人、同じ物件を何度も押しつけようとする人、物件の欠陥を必死に隠そうとする人、「少し考えさせてください」と言ったら急に怒り出す人、性格は良さそうだけどなんとなく頼りない人、明らかに年下なのにタメ口で話す人、こちらが言ったことしかやってくれない人、私たちより不動産や住宅ローンの知識が足りない人(今や私たちの知識もかなりなものだ)、プロとして仕事はできるが人として信頼できない人。
実にいろんな人間がいた。
半年が過ぎ一年が過ぎても、私と妻はまだ心を決めかねていた。そして、仕事の都合と心機一転のため「住まい」探しを一旦休止した。目の前で氾濫している知識と情報を一度整理する必要があったし、なにより二人ともほとほと疲れてしまっていた。
それから数カ月後、「そろそろ再開しようか」と話していたある日、妻が一昨年のカレンダーを広げた。そこには「住まい」探しを始めた二年前のスケジュールが記入されていた。
「ねぇ、もう一度、最初からやり直さない?」といちばん最初に記入したアポイントメントを指差しながら妻が言った。私はすぐに同意した。
翌日、最初に会った営業の彼に二年ぶりに電話をした。
「......あの、覚えていますか?」
「もちろんです。ご無沙汰しております。お元気ですか?」
そのわずか二週間後、私たちは念願の「住まい」を手にいれることになった。
引っ越しのお祝いに駆けつけてくれた兄は、「住まい」探しの顛末を聞いて驚き、あきれ顔をした。
「なーんや、二年前にその人に任せとけば話は早かったんやないか?」
兄の言う通りだった。
変な話、二年間もの長い時間をかけて人を探し、たった二週間で「住まい」を探したわけだ。でも、私と妻はこの変な話に、「住まい」探しのすべてに、これ以上ないくらいに満足しているのだ。
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