人生でいちばん大きなお買い物
人生でいちばん
大きなお買い物
STORY
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2016.05.23
わかる!な出来事
営業スタッフの思い

感謝への感謝

 どんなに簡単に思える仕事も思うほど簡単ではない。誰でもできそうな単純な作業ほど欠点が見えやすいから、さりげなくこなすのは実は難しいと思う。そのためには人知れず見えない努力や工夫が必要だし、それができる人に私は憧れる。
 でも、やっぱり誰かに見ていてほしい、わかってもらいたい、神様だけじゃなくて  と願ってしまう私はまだまだ未熟者だ。
 
 定刻の午前九時より十五分前に出社、制服に着替えると、オフィスの玄関前と接客室の床を掃除する。それから、いつものように受付カウンターの前に立って(受付嬢が一日の大半を過ごす場所だ)接客室を見渡して、テーブルや椅子、壁のポスター、パソコン、観葉植物などのレイアウトを確認する。さらに、客様の動線を意識して接客室を歩き、位置や曲がりを整えながら(私なりのセンスだけど)、テーブルの上を拭いて回る。そして、もう一度カウンターの前で最終チェック。
"ん、悪くない......かも"
 不動産仲介のオフィスは休日の来客が圧倒的に多い。土曜日の今日も接客室は、さまざまなご家族が打ち合わせしたり、現地へ物件を見に出かけたり、あわただしく賑わうことだろう。ご契約も午前と午後に二本組まれている。とくに午前の方は、新人の営業社員が三ヵ月以上、幾度となく打ち合わせと物件のご紹介を重ね、紆余曲折の末、ようやく漕ぎ着けた初契約  私としても(心の中で応援しながら見守ることしかできないのだが)思い入れが強かった。
"どうか無事に終わりますように"
 午前九時半過ぎ、私は〝本日の香り"を選ぶ。来客の多い日はアロマオイルを使う。お客様には心地良い時間を過ごしていただくために、社員には心身ともにリラックスして接客してもらいたいから。
 アロマオイルは妊娠中の女性や乳幼児に使えない種類もあるのでラベンダーやローズウッドといったよく聞くものが安心みたい。今日はフランキンセンスで  ディフューザーに数滴垂らすと、緊張やストレスを和らげるという甘くウッディな香りが鼻先をくすぐる。
 飲み物とお子様用のお菓子を準備し、キッズコーナーのオモチャとDVDを選んで、受付カウンターの中に座る。まず二組のご家族が午前十時にご来社、ご契約は十一時からだ。
"さぁ、今日も始まるね"
 
「いらっしゃいませ」
「こちらで少しお待ちください」
「お飲み物はいかがですか?」
「いってらっしゃいませ」
「ご来店、ありがとございました」
 担当の社員につなぎ、飲み物を出し、キッズコーナーで遊ぶお子様たちに注意を払い、物件を見学に出かけるお客様やお帰りになるお客様を見送り、テーブルを片付け、見学から戻ったお客様を迎える。多いときは五、六組のご家族を同時に見ながら、それぞれのタイミングを計って対応する。
 思えば昔の私は、飲み物を間違えたり、出し忘れたり、カウンター前でお客様を十分以上お待たせしてしまったり、ご契約の重要事項説明中にお茶を取り替えて後で営業社員に怒鳴られたり  そういう失敗の積み重ねがなければ、今ここにいる私は存在しないんだと思う。
 ガラス張りの契約室の中、新人の営業社員の緊張した表情が見えた。彼が担当するご契約が始まって一時間以上経った。
 実はさっき"うまくいきますように"と念じながら彼のお茶を入れた。これは誰にも教えない秘密だけど、ときどきお客様の飲み物も"どうかステキなお家が見つかりますように"とお祈りしながら作ったりする。
"ちょっと子供っぽいかな"
 キッズコーナーでご契約中のご夫婦のお子様二人をお世話していると、契約室のご夫婦と彼が握手するのが見えた。
"ふぅ、よかったな"
 
「おめでとうございます。お疲れさまでした」と新しいお茶に取り替えながらご夫婦に声をかけた。
「ありがとうございます。今日もいい香りがしますね」とお二人は満面の笑顔を私に向けてくれた。思いがけない言葉が幸せだった。と、すぐ横にいた彼が私に耳打ちする。
「......お茶のお陰ですよ」
 一瞬、私はドキリとする。
"え、どうして知ってるの?"
「毎回、絶妙のタイミングで飲み物を出したり、取り替えたり。香りのおもてなしも最高です。いつも本当にありがとうございます」
 私の心は嬉しさにちょっとだけ涙ぐむ。
"二つのありがとうに感謝"