岐路としての住まい
♣鳥たちの声で目が覚めた。窓を開けると、快晴の空の下、黄金色に輝く終わりかけの紅葉が目に眩しかった。外から流れ込んでくる空気が頬をひんやりと撫でる。秋の後ろ姿が静かに遠のいていくのが五感に伝わってくる。息を吸い込むと少し冬の匂いがした。
都心にいるとき、季節は前触れもなく突然変わった(そう感じていた)。四季はゆっくりと移ろいながら毎日違った顔を見せてくれることを、この景色は僕に教えてくれた。
♥二階から降りてきた夫は「おはよう」と私に声をかけるとベビーベットを覗き込み、十ヵ月になる息子に「おっはー」と相好を崩した。
逗子で暮らすようになって一年足らず、私はいろんな初めてを体験した。空気がおいしいと感じたこと、四季折々の匂いを知ったこと、数えられないほどの流れ星を目撃したこと、月の明かりだけで本を読んだこと、そして今、目の前で息子を抱く夫の子供のような笑顔を発見したこと 窓から差し込む陽光に照らされた二人を見ていると、都心で暮らした年月よりもずっと長くここにいるような錯覚に陥る。いや、ここでは本当に時間がたゆたうようにゆるやかに流れているのかもしれない。
♣妻のおめでた(僕にとってもめでたいのだが)を知ったとき、借り物ではない家族の場所を持とうと強く思った。
渋谷へ自転車で通勤できる距離が条件 今の家賃に少しばかり色を付けたローンの支払いを想定したとしても、一戸建ては到底望めず中古マンションに限定された。それでも、とにかく妻と二人で物件を見て回ったが、理想と現実のギャップに愕然とした。どの物件もとにかく狭すぎ、壁や床、扉も窓もすべての設備に改修が必要なほど古くて汚い。こんな場所で、妻と子供と一緒にこれからの長い人生を過ごしていくのか そう考えると心が深く重く沈み込むのを感じた。
♥この半年間、土日のどちらかは必ず渋谷区と目黒区の中古マンションを(私の体調が悪いときは夫一人で)見学に行った。都心だからとにかく便利 それ以外の利点を持つ物件は皆無だった。
夫と私は結婚して五年間、住宅購入の自己資金を毎月貯めてきた。それだけに落胆も大きく、夫の気持ちが日々萎えていくのが目に見えてわかった。
いつものように物件を見学し、いつものように無駄足だったある土曜日の午後、渋谷で夕飯のお買い物をして帰ることになった。信号待ちのスクランブル交差点 信号が赤から青に変わっても夫は歩き出そうとはしなかった。人の波が夫と私を避けながら行き交う、まるで私たちだけが時の流れに取り残されたみたいに。
「ここを歩いている人たちは幸せなのかな」
夫が小さくつぶやいた。私は夫の左手をそっと握った。
♣その物件を見つけたのは妻だった。都心から電車で一時間半の逗子駅徒歩二十分、豊かな自然に覆われた丘の中腹に佇む築二十年超えの一戸建て。
「素敵な場所ねぇ」
「うん、定年したら老後はこんな所でゆっくり過ごしたいね」
「次のお休みに観光気分で見に行ってみない?」と妻が微笑んだ。
♥営業の女性に案内されて、鬱蒼とした林の一本道を抜けると目の前に空と美しい田園が広がった。思わず息を呑みながら夫の顔を見ると、同時に夫も興奮した表情で私の顔を見た。その景色の端っこにぽつんと目的のお家があった。
♣その夜、夕食のビールの乾杯後、僕は妻に自分の思いを切り出した。
「田舎の子供より都会の子供の方がアトピーとかアレルギーの割合が十%近く高いって知ってた?」
「うん、聞いたことあるかも」
「流行りの古民家みたいなリフォームしてさ。平日は仕事、休日はしっかり休む。なにも老後じゃなく今からでもいい気がしてさ」
「土日なく働いてたからね、メリハリは必要かも。あのね私、畑やりたいな、そこで育てた野菜で料理のレシピ作ってブログに書きたい。あと子育て日記みたいなのも」
「いいねいいね。この子はゲーム禁止だな。海で泳いだり、虫取りするのはOK。勉強より遊び優先」
「あの景色がこの子の故郷になるのよ、それってスゴくない?」
♥家族の未来を語り合い、明るくなるまで二人で盛り上がった。朝の光が恨めしいほどに、私はずっとこのまま夫と話していたかった。
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