九十点の住まい
♡ワタシは思ったことを心に留めて置けない性格で、ときどき周囲の人たちとちょっとした諍いになることがある。夫は無口でやさしい性質だが、いつも正論を口にするのがなんだか癪に触るので、出会った頃は口喧嘩ばかりしていた気がする。
「そうやって腹を割って話すことで打ち解けるタイプなのよ」
そう自己分析ならぬ自己弁護したりすると、夫は「もう少し大人になれば?」と説教じみたことを口にするから、また癪に触るのだ。
そんなワタシたちも三十代半ばを迎え、念願のマイホームを購入することに 夫と長男と過ごす未来の幸せなイメージが頭の中でどんどん膨らんでいった。
♠初めての住まい探しで当社を訪れた三十代半ばのご夫婦と七歳のご長男という三人家族 ご希望は小学校の学区エリア、駅から徒歩十五分圏内、二台以上の駐車スペース、南向きの道路沿い......。
「......あとそう、リビングは十五畳以上で開放感重視、キッチンは対面式カウンターで、和室はあってもなくてもいいかなぁ」と奥様は夢見る少女のように私を見る。
私はお客様に言いにくいことも正直に伝えることにしている。夢と現実の間にはどうしようもなくギャップが存在する そのことをご理解いただき、ご希望を最大限に叶える「住まい」を一緒に考えながら探すのが私の営業スタイルだから。
「百点満点の建売りを見つけるのは正直難しいので、プライオリティを決めて八十点を目指しましょうね」と言った途端、奥様の表情が見る見る強ばるのがわかった。
♡「どうしてそんな夢を壊すようなことを言うんですか?」と思わずワタシは語気を強めた。その営業担当の彼は十歳くらい年上だろうか、最初はワタシの話を静かに聞いてくれて好感度も高かったのに。望みがすべて叶うとは思わないけど、いや、叶うといいなと少しだけ思ったりもするけど、そこまで決めつけなくても と、膝に夫の手がそっと触れるのを感じた。
その日から何度か物件の見学に現地へ案内された。彼のアドバイスはいつも的確すぎていちいち納得させられるのだけど、なんだか上から目線に感じられてつい反発してしまうワタシ。二度目の案内のときに見学した建物が気に入ったけれど、前の道路が狭く、車の抜け道なのがネックだった。
「車が多いとお子さんが心配ですから、もう少し他を探しましょう」
次の週末、もう一度その物件を見たいと彼に頼んだら、すでに他の人が契約したと知らされた。横から急に誰かに奪われたような口惜しさを抑えられず、ワタシは彼のせいではないのに、彼のせいにして本心ではないことを口走った。
♠「あなたの言っていることはいつも正しいし本当のことだとわかっているけれど、あなたのことは嫌いです」と奥様に面と向かって宣言されたときは面食らってしまった。相性が良くないのは仕方ないけれど、さすがに嫌われるのは悲しかった。条件が厳しいこともあり、そこから住まい探しは停滞した。
そして一ヵ月が過ぎたある日、少し前に下見で九十点だったが予算が合わず見送った物件の値下げ情報が舞い込んだ。夕方、奥様とご主人をお連れすると、これまでとはお二人とも目の輝きが違った。駅から徒歩十分、日当たりも良く南側六メートル道路に面した立地、リビングは十三畳と小さめだが、ここを逃したら奥様はきっと後悔するだろう。私が嫌われて済むのなら、と私は口を開いた。
「これだけの条件が揃って二百万の値下げです。今日中に申し込まないと確実に他へ流れますよ」
「もっとじっくり考えたいのに」とおかんむりの声がしたと思ったら「いい加減にしろ」とご主人が奥様をたしなめて「よろしくお願いします」と私に軽く会釈した。
♢引っ越して一ヵ月半、ワタシは思い描いていた家族三人で過ごす未来の幸せなイメージの中にいた。
夫は彼のお陰だと言うが、ワタシもそう思うけど、今さら「ありがとう」なんて言うのも照れ臭いじゃないの。
♠営業室で社長に「あ、さっき例の奥様から電話あったよ」と声をかけられた。
"ん、なにかの苦情か?"
「実は三ヵ月前に担当を替えてくれって連絡もらってさ。そのとき〝替えません、他へ行くならどうぞ〟ときっぱり断ってくれて〝ありがとう〟だって。お前に直接言えばいいのに、照れ屋さんだねぇ」
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