人生でいちばん大きなお買い物
人生でいちばん
大きなお買い物
STORY
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2016.05.23
わかる!な出来事
営業スタッフの思い

あきらめない初心

 僕はまだ入社三ヵ月をすぎたばかり。先輩に何度か同行させてもらって仕事の流れはなんとなく掴んだし、勉強会なるもので不動産の基礎知識もひと通り覚えた。
 よしっ、準備万端。一人前の営業職として華麗にデビュー  なんてことあるはずはないよなぁ(笑)。
 過去にご来社いただいたり、物件をご紹介したり、なんらかのコンタクトがあったお客様への電話によるアプローチ  これが今の僕に任せられた仕事。一見簡単そうだけど、電話がお客様とつながる確率はかなり低く、運よくつながっても「もう決まりました」と言われる確率がかなり高い。
"この仕事で初契約をもぎ取ってやるっ"と鼻息も荒く受話器を握りしめて三日目、僕の鼻息はすでにか細い吐息へと変わり始めていた。
 三年ほど前に一度ご来社いただいた音楽関係の仕事をしている三十代後半の男性  "さすがにもう買ってるよなぁ"とあきらめ気分の僕は空しく響くコール音を数える。一、二、三......九、十回で受話器を置こう、と思ったその十回目のコール音が急に途切れた。
「はい、もしもし......」
 僕はあわてて社名と自分の名前を告げると「住まい探しの方はいかがなさいましたか?」と訊ねた。
「あーまだ探してるよ。でも、条件が厳しすぎるって不動産会社の人が先にあきらめちゃうから」
「いや、僕はあきらめませんっ」
 思わず僕は言い切った。自分でも"怖いモノ知らず"と感じた。
「まだ右も左もわからない新人ですけれど勉強させてくださいっ」
 沈黙......呆れられちゃったか?
「......じゃあ、物件の条件やイメージを伝えたいのでメールアドレスを教えてもらっていいかな?」
 そのあとの僕がメールのチェックばかりして仕事にならなかったのは言うまでもない。待ちに待ったメールが届いたのは午後七時すぎ。プリントしてみたらA4用紙五枚に文字の大海原が広がっていた。
"な......長い"
 景観地区、防火地域、容積率など聞き覚えのある単語もちらほら見えるが、一枚目からしてすでにわからない......なにがわからないのかもわからない。
"う、困った"
「プロ以上の知識だね」
「新人には無理かもな」
 先輩方の声に発奮し「いや、やります」と豪語したけど。
"だ、大丈夫かな"
 
 お客様の職業は音楽プロデューサー、もう十年近く録音スタジオを完備した仕事場兼自宅を探しているらしく、駅から徒歩十五分以内、隣家のない緑豊かな高台に五十坪の敷地が条件だった。
"確かに厳しい"
 僕は少しでも条件に当てはまりそうな物件は中古、新築、土地もすべて選び出して三十件近い資料を送った。
 翌日、その一件一件にNGの理由が丁寧に書かれた返信があった。その返信を何度も繰り返し読んでいると、ふとお客様の思い描くイメージが曖昧だけどぼんやり見えてきたような......そのイメージを頼りに資料を見ているとき、ある物件が僕の目に留った。
 緑地公園の一角、四十五坪の敷地に二階建て中古物件  とりあえずお客様に資料を送ると、僕は居ても立っても居られず現地へ。
 まるで新築のようにリフォーム
された屋内をデジカメで撮影していると突然僕のスマホが震えた。
「さっき届いた物件だけど......」
「あ、今、僕、そこにいるんです」
「え、下見してくれてるの? 今からそこへ伺ってもいいかな?」
 三十分ほど待つと、想像よりも柔和な雰囲気の男性が姿を見せた。
"ここにスタジオを増設するのは難しい"という結論に至ったが、その日を境に週二、三回のペースで一緒に物件を見て回る日々が始まった。僕は、物件を見学しながら彼から不動産のこと、音楽の仕事のこと、ときには世間話も、いろんな話を聞くことで、不動産仲介という仕事の魅力とその本質に少しだけ触れられた気がした。
「君に"あきらめませんっ"と言われたとき、もしかして私自身があきらめているのかも、と気づかされてね。これまで会ったほとんどの人が"そんな物件は地球上に存在しません"って態度で、もうやめようかな、と。君がなにも知らない新人だったから、僕も一緒に初心に戻れたと思うんだよ」
 僕にはもったいない言葉だった。
 
 一ヵ月後、彼は美しい緑に覆われた小高い丘の中腹、小学校に隣接する四十坪の土地を選んだ。
「子供たちの声は創作意欲を刺激するからね」と子供のように無邪気に笑う彼から僕は初契約よりも大切なものをたくさんもらった。