幸せならハグしよう
♣早めにベッドに入ったけど、眠れなかった。
半年間の「住まい」探しのことが頭の中を行ったり来たりする。ご主人の真っすぐなやさしさ、奥様のくったくのない明るさ、三歳の息子さんの愛らしい笑顔 そんなご家族の幸せな未来が僕の手に委ねられていると思うと、まんじりともせず目は冴えるばかり。
夕方、電話でご主人と明日の最終確認もしたし、あとは運を天に任せるしかないのに。運を天に......あ。ふと、僕は駅前に小さな神社があったことを思い出した。
♠やはりどうにも寝つけなかった。明日のことはさっき妻ともきちんと話し合った。
「心から信頼している人に託したのだから、どんな結果になっても素直に受け入れよう」と。隣ですぐに寝息を立て始めた妻を見ると、その肝の据わり方というか神経の太さがうらやましくもある。
半年近く、営業担当の彼にはお世話になりっぱなしだった。予算やローンの問題を解決するために奔走してくれたり、希望のエリアや間取りについて「この予算では無理なのかなぁ」とあきらめ気分になったときも「一生のことですから妥協しないでもっと探しましょう」と勇気づけてくれたりした。
"うん、どっちに転んでも彼には感謝しかないな"
♣エリア、間取り、仕様と設備そして価格 すべてにご家族の思いを叶える奇跡のような分譲地の物件は、人気エリアということもあって抽選になった。分譲地の抽選にはお客様は参加できず、仲介する営業担当がクジを引く。会社でも年に一度か二度あるかないか、僕の営業人生でも初めてのことだ。そのプレッシャーたるや、言葉ではとても表現できない。
夜中の神社に人影はなかった。僕は賽銭箱に五円玉を入れて、近所迷惑にならないようゆっくり鈴を揺らした。夜の静かさに遠慮がちな鈴の音が響いた。二礼二拍手。目を閉じて手を合わせると必死に祈った。
"子供の頃からずっと悪いクジ運を明日だけでいいので良くしてください。ご家族三人を幸せにしてください。うまくいったらときどきお参りするようにしますから。本当です"
最後にもう一度深く礼をした。少し心が楽になった。
♠午前中、私と妻は息子を妻の両親に預けて彼の車で抽選が行われる分譲地へ。会場のすぐ近くにあるコインパーキングに車を停めた。私と妻は車に残って彼の報告を待つ。車から出るとき、少し引きつった表情で彼は言った。
「がんばります」
「がんばらなくてもいいのよ、なるようにしかならないんだから。気楽にね」と妻は彼に笑顔を返した。
"ステキな激励。さぁ、数十分後には運命が決まる"
妻はいつ用意したのか、ポットから熱いコーヒーを注いで私に手渡しながら「なんか顔が怒ってるわよ。なるようにしかならないんだし、ハズれたときはハズれたとき、それからどうするか考えよう、ね」と天使のように微笑んだ。気持ちがすーっと楽になる。この女性と一緒になって良かったと思った。
♣分譲地は五棟 希望する棟を順番に抽選し、漏れた人は次の希望へ回ることができる。つまり後になればなるほど、漏れた人たちが集中するので倍率は高くなるわけだ。
第一希望の抽選、希望者は三組、確率は三分の一。白い箱の中に入った札を引く。僕の番、緊張のあまり手が震えた。入試でも就職試験でもこんなに緊張したことはない。札を手に取って引き出すと、そこに印はなかった。
♠スマホが鳴った。第一希望は叶わなかったと彼の申し訳なさそうな声。すぐに第二希望の棟を確認してスマホを切った。
彼の気持ちを思うと落ち込むよりも、彼に心からのエールを送りたくなった。
「次は五組らしい......五分の一だな」
「大丈夫、がんばって」と拳を握りしめた。普段はよく意見が対立して言い合いになったりするけど、もしかしたら私たちはとても気の合う夫婦なのかも、と思った。
♣僕は分譲地の申し込み用紙に必要事項を記入すると、居ても立ってもいられずに抽選会場から駆け出した。スマホよりも走った方が早いと思ったからだ。
コインパーキングに駆け寄ると、ご主人が僕の車から飛び出してきた。
♠コインパーキングで、私と彼は躊躇することなく、まるで恋人同士のように抱き合って、その場を跳ね回った。車から降りてきた妻も二人のハグの輪に加わると、私たち三人はいつまでもハグし合い笑い合いながら飛び跳ねた。
そのとき、幸せそうに微笑む妻の目が少しだけ潤んでいるように見えた。
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